「……は?」
目の前の男が広げる掌を見て、とっさに意味が理解できない。寿也を見下ろす男は三十代後半くらいで眼鏡をかけた、まあまあ格好いい部類に入るような感じだった。
『ねえ、ちょっと君』
急いでいたとはいえ、声をかけられるとつい習慣で足を止める。
プロ入りも決まった寿也は今やちょっとした有名人だった。話しかけることもしばしばある。戸惑うことも多いけど、自分の野球を観てくれているのは単純に嬉しいから、寿也はそれらに素直に応えていた。
だが、今日は違った。何となく嫌な予感がして、いつもの癖で、笑顔で対応してしまったことを後悔する。
悲しいことに、こういうときに感じるインスピレーションは必ずと言っていいほどあたるから厄介だ。
「だから、五万だよ。足りないなら両手でもいいかな。君かわいいからね」
さっきまでの表情はどこへやら。気持ち悪い笑みを浮かべながら、その男は腕を寿也の腰に回してくる。抗う暇もなく引き寄せられ、思わず身体を強張らせた。
ぞわぞわと背後からせまってくるものは、背中を這う掌だけじゃない。気持ち悪さと、そして急激な嫌悪感に襲われる。
「そういうことに興味ありませんから」
冷静を装ってみたところで、相手を喜ばせるだけだろうけど、このままやられっぱなしも癪にさわった。ゆるく睨みつけると男は目を細めてほくそ笑む。
「へーえ、もったいない。ここにいるだけで普通の仕事の十倍は稼げそうな顔をしてるのに。……よかったら、教えてあげようか」
もう十分すぎるぐらい知ってるよ、そんなこと。
口には出さない。その代わり、寿也は笑った。もしここにチームメイトがいれば完璧な営業スマイルだと褒められるかもしれないな、と思うくらいのものを。
案の定、相手が見惚れたように動かなくなった隙に、勢いよく腕を払うと容赦なく腹に一発蹴りを入れた。喧嘩っ早どこかの誰かと違って、こんなことをしたのは初めてだ。足先に触れたやわらかい感触に軽く吐き気がする。
呻き声がして、彼が道路にうずくまるのと寿也が全力疾走でその場から離れたのはほぼ同時のことだった。
「……だから、ウチに来て最初にシャワー浴びたのか」
幾分不機嫌な吾郎の声に、彼のベッドで寝転んだまま寿也はとりあえず返事をした。
さすがに秋も更けてきたので素肌のままじゃ寒く、身体を丸めてシーツにくるまる。手を伸ばせばすぐそこに毛布もあるけれど、身体も心もだるくて動きたくない。だから泊まりは嫌だったのにと、自分の判断の甘さを果てしなく後悔した。大体うちに来い、なんて連絡が来た時点で断ればよかったのに。
どんなに溜息ばかりついたって、昼間のあの出来事が印象的すぎて帰る気になんてなれるわけがない。
「何で繁華街なんか通って来るんだよ。いつも一回実家に帰ってるじゃねーか」
「今日はおじいちゃんたち用事でいないんだ。だから寮からこっち向かったんだけど、電車が止まっちゃってて。繁華街突っ切ったほうが早いかなって思ったんだよ」
「あのなー、夕方の繁華街なんて変質者がウロウロしてるって分かるだろうが」
「だって普通、自分がそういう対象で見られてるなんて考えないってば」
「そこがおかしいんだっつーの」
「何が。だって僕は男だ」
「男も女も関係ねえだろ」
吾郎は先程――正確に言えば、寿也の話を聞いたとき――からすごく素っ気無かった。長年の付き合いで彼が怒っていることは分かるが、その理由がいまいち掴めない。
「何怒ってるんだよ」
「別に。お前の気のせいだろ」
むっとして身を起こそうとするも、肌が少しシーツからはみ出ただけで寒さに身震いした。すると相変わらず仏頂面をしたままの吾郎から毛布が手渡される。
「……ありがとう」
素直じゃなくて全然かわいくないけど。
戸惑いながらも毛布を受け取った瞬間に触れた手がいつもよりも冷たくて、寿也は眉をしかめる。吾郎は下半身だけジャージをまとった格好、つまり上は何も着ていないのだから当然だ。
「肩冷えるよ?何か着たら?」
「……」
「吾郎君」
「……」
今度は思いっきり無視か。
「シャワー浴びてくる」
もう話すことはないとでも言うように、吾郎はのっそりと立ち上がった。スプリングがぎしぎしと鳴きながら揺れて、思わずぎゅっと毛布を握り締める。
やがて部屋から彼が出て行くのに、そう時間はかからなかった。
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