:: 夜を駆ける・2 ::
 それを問われて、吾郎は少し視線を彷徨わせる。映るのはギブスで固定され、上から吊られている自分の足だけだった。
「……悪ぃけど、見舞いは来ないでくれるか?」
「僕が行くと迷惑?」
 違うと強く否定してから、理由を上手く説明できるのか些か不安になった。
 まず、こんな姿を見て、寿也は幻滅しないだろうかと思った。
 野球が出来ない自分の価値を、吾郎はずっと見出だせないでいる。リトルで肩を壊した時、本当に自分には野球しかないのだと思い知らされたのだ。今回だって復帰はできるものの、まだまだ、時間がかかる。
 こんな所にもくだらないプライドがあったのか。吾郎はそんなふがいない自分に自嘲した。
「なんつーか、俺は今、野球はもちろんだけど歩くことも出来なくて。んな姿見せたくないってのもあるし」
「そんなの関係ないだろ!僕は吾郎君に幻滅したりなんかしないよ」
 それはきっと本心からの叫びだろう。本当は吾郎にだって分かっている。寿也がそんな人間ではないことぐらい。

「……最後まで聞けって。それだけじゃねえから」
 一度言葉を切ってから吾郎は目を伏せた。
 高校での野球生活はたった二年半の記憶なのに、まるでほこりの積もった、分厚いアルバムを開くような気分だ。たくさんの情景が鮮やかによみがえってくる。

 寿也には、我儘で身勝手な理由だと怒られるかもしれない。でも、吾郎にはある一つの決意があった。
「俺は、俺自身の足でお前の所に行きたい。時間はかかるだろうけど」
 またな、と寿也から離れたのは、吾郎だった。
 ならば、彼に歩み寄るのも自分だと吾郎は自負している。それは、誰の手も借りずに、自分の足じゃなければ意味がない。
 寿也に会いたいと思う気持ちは消えることもなかったし、すぐにでも会って話をしたいとも思っている。ただ、その全てを集約した言葉が吾郎には見つからなかった。
「待っててくれるか」
 少しでいい。自分が意図したことのすべてじゃなくて、ほんの一握りでいいから伝わってほしい。
 機械の向こうで、寿也が息を飲んだ気がした。やがて、吾郎君って本当にバカだよねと軽口が飛ぶ。
「うん、待ってるよ。――ま、あんまり遅いようだったらそっちに押しかけるからね」
「そうならないように努力すっから」
「でも無理はしないで。吾郎君の身体に代えはないんだよ?」
「分かってる。ありがとな、寿也」
 その言葉に、昔、自分のことを心から心配してくれた茂野のことを思い出す。
 あの時、桃子以外にそんな人間はいないと考えていたけれど、それは全然違ったのだと最近になってようやく分かった。
 前の入院時に薫に言われたことや、昨日の試合での仲間達からの励まし。
 もしかしたら本当は、心配してくれている人はたくさんいて、けれど自分が気付かなかっただけなのかもしれない。

 考えてみれば、野球を止めようとしたあの幼い日からずっと寿也に励まされ、触発され、心配されて今日まで来ている。
 君にはこの左肩しかないんだよと、普段冷静な彼が怒りを露にしたことに、どこか喜ばしい気持ちがあったのも事実だ。
 きっとこうして野球以外の時間が取れなかったら、すべて見落としてしまいそうなくらい、それは当たり前に行われている。
「止める人がいないと、吾郎君はどこまでも暴走するからね」
「悪かったな。……寿もあんま無理すんなよ。ついでに色々と溜め込みすぎんな。お前はキャプテンだけど、一人の選手なんだからよ」
 だから、それを今度は自分が寿也に返してやりたいと思った。お前を心配してるやつがここにもいるということを頭の片隅にでも入れておいてもらいたい。
「努力はしてみるよ」
「こういう時は「うん、ありがとう吾郎君」とか言うもんだろ」
「だって君、僕がそんなこと言わないの知ってるくせに」
「ったく。……やっぱり鋭いのな」
 ここで決して頷かないのが寿也の強さであり、弱さなのだろう。
 そんな所を含めて、吾郎は佐藤寿也という人間に惹かれているのだ。
「……でも、気をつけるようにはするから」
 ありがとう、吾郎君。



 控え目なノックの音が、二人を現実に引き戻した。看護師だろうか、話し声が外に漏れたのかもしれない。
「もうこんな時間か……」
 ベッドの横に置かれた時計を見るととっくに消灯は過ぎていて、窓の外には月が光っていた。
 寝る前は夕方だったから、こんなにも空が綺麗だとは気付かなかった。
「今日は三日月なんだね」
「ああ、そっちからも見えるのか。結構綺麗だよな」
「……風流あったんだね。野球以外どうでもいいって言われるかと思った」
「あのな……」
 言い返えそうとして、やめた。どうせもう切らなければいけないのだ、くだらない言い合いに時間をもっていかれるなんてもったいない。

 空は繋がっている、ということを、吾郎は初めて実感した。少し距離のある寿也と今、同じ月を見上げている。不思議で、けれども変な気がしない。まるで寿也が隣にいるような錯覚に陥る。
 ひょっとすると、寿也との距離は、思ったよりも遠くはないのかもしれない。
「応援してっから、甲子園勝ってこいよ」
 機械の向こうで、寿也が笑った気がした。離れていても分かることはあるのだ、多分。
 しつこくノックが鳴り響く。もう切らないと電話止められるかもな、と吾郎は呑気だったが寿也はそうはいかないようだ。
 仕方なく、おやすみと、厚木で過ごした夜のように言い合って、けれども名残惜しく吾郎が電話を切らないでいると、不意に寿也の凛とした声が響いた。
「――僕は聖秀と戦えてよかった。本当に楽しかったよ」
 慌てて返事をしようとしたのは、すでにツー、という冷たい機械音が繰り返されている時だった。
 言い逃げかよ。
 少し汗ばんだ受話器を元に戻して、吾郎は窓の外に目を移すと、三日月が薄い光を放っている。
 いつかまた、こんな月を共に見上げることができる日がきっと来る。遠くない未来に思いをはせて、吾郎は目を閉じた。


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