春の訪れを告げるはずの風が、今年は妙に冷たかった。おかげで桜はまだ赤いつぼみのまま色付きもしない。もうすぐ四月なのに寂しいなと呟いた。
一階の窓からこっそりと抜け出して、寿也は今、寮の外をふらついている。それは、例えば自由になりたいと思ったり、寮生活に嫌気がさしたわけでもなく。
あの部屋にいると、時々息が詰まりそうなくらい、苦しくなる。そこから抜け出したかっただけだった。
未だ白くなる息に、マフラーは持ってきてよかったと、顔を毛糸のそれに埋める。今は三月だが、これでは本当に春の訪れは遠そうだ。
真っ暗な空を仰ぐ。
空気は冷え、風が吹いているからか、空はとても澄んでいて雲一つ見当たらない。欠けた三日月だけが寿也を見ていた。
「夢島と違って、全然星が見えないんだ」
地獄のような特訓ばかりをしたあの島は、色々と不便なことも多かった。けれど自然が数多く残っていて、とても綺麗な所だったことを覚えている。寿也はあそこが嫌いではなかった。
そして、泥まみれになった姿ばかりの記憶の中で、たったひとつの綺麗な情景が残っている。
寿也は一度、あの古びた建物から連れ出されたことがあった。
強い力で手を引かれるままに走り、その先の丘で見上げた夜空。そこに散らばった、零れそうなくらいの星の光に目が眩みそうになった。
いつだって隣には吾郎がいて、それだけでわくわくと心が踊り、楽しくて。
それなのに、道は違えてしまったのだ。
あの時は何も疑わなかった。吾郎とバッテリーを組んで甲子園に行くことが夢であり目標で、たった一つの励ましだった。それは自分だけでなく、彼も同じだと信じていたのに。
一緒に見たあの星空は、今も瞼に焼き付いている。それなのに、隣に立っていた吾郎の表情は全く記憶にない。腕を掴まれた先の体温は確かだったのに、まるで夢みたいだと思う。
そんな風に、いつかは忘れて彼と対峙できるのだろうか。平気な顔をして、バッターボックスに入る自分の姿を浮かべることが、少なくとも今はできなかった。
踵を返し、寿也は寮に戻る。開いているはずの窓に足をかけて侵入すると、静かに自分の部屋に帰った。扉を開けてベッドに抜き足で向かう。
歓迎試合の後から、吾郎は変わってしまった気がする。どこがと聞かれても上手くは説明できない。でも、彼のボールを受けるたびに、その違和感はどんどん膨らんでいくばかりだった。
それはまるで、自分に何かを訴えてくるような――。
「寿也」
いきなり上から声が降ってきて、寿也は思わず肩を大きく揺らした。金縛りにあったように動けなくなって心臓の音が妙にうるさい。
「ご、吾郎君っ」
「んな焦るなって。……朝帰り、じゃねえか。そんなに時間たってねえし」
どうやら寿也が出ていったことを知っていたようで、吾郎が小指を立てながら残念そうな顔をする。
「ま、寿也に限ってそんなことあるわけねえか」
勝手にべらべらと喋りながら、吾郎がベッドからのっそりと身を乗り出してきた。無意識に身を引こうとするが、腕を掴まれてそれは阻まれてしまう。触れたのは、あの日と同じ掌の体温だった。
「どうかしたのか?」
「……なんでもないよ」
「ふーん」
程なく手は放される。
だが、いつまでも立ち尽くす寿也に、吾郎はマジでどうしたんだよと二段ベッドから静かに降りて顔を覗いてきた。
「大丈夫か?」
普段と違うその声音から、本当に心配してくれているのが分かって、また胸が詰まる。くるしくて、思わずシャツの胸元を握り締めた。
もしも、もしも吾郎に、いかないでと言えたなら。そうしたら楽になれるのだろうかと何度も考えた。もっとバッテリーを組んでいたいんだと叫ぶことができたら、もしかしたら何か変わるんじゃないか、と。
でも、そんなことをしたって、彼は寿也の欲しいものの一つだってくれないだろう。そんなこと、とっくに理解しているのに。
「寿?」
「もう、寝ようか。明日も朝練するだろ?」
作り笑いを浮かべ、吾郎からに逃げるように、寿也はわざと目を逸らした。これ以上は耐えられない。息苦しさに眩暈がしそうだった。
「……寿也」
沈黙に包まれたのはほんの数秒だったはずなのに、それは永遠のように長い時間だった。
胸元の腕を引かれて、吾郎の真っ直ぐな瞳が寿也を捉える。視線が合ってしまった。
「俺はお前以外に投げる気はねえから。体調悪いならちゃんとしとけよ」
「……うん」
嘘だ。
彼も、自分も、嘘をついた。
いなくなるなら、優しくなんてしないでほしいと思った。放っておいて、見ないふりをして、キャッチャーではなくただの壁と考えてくれればいいのに。
やっと掴めそうになった時、ひらりと全てを持って、また見えなくなってしまう。吾郎はそんな人間だ。
だから寿也は彼と知り合って長い年月がたっても、彼については全然何も分からなかった。
喩えるなら、あの空の星にいくら手を伸ばしても、触れることさえできないように。
ひとつだけ確かなことは、繋がっている掌と腕の、おかしいくらいの熱だけだった。