持っていく荷物は意外に少ない。そのせいか荷造りが早く終わってしまい、寿也は手持ち無沙汰に溜息をついた。
もうすぐこの実家を離れ、巨仁の寮で住まうようになる。今度は野球で飯を食っていく――つまり、金をもらって生活をするというのだから、中高のときとは気持ちも決意も全然違っていた。
不安がないといえば嘘になるが、もう後戻りは出来ないのだから、やるしかない。そう自分に言い聞かせて、この数か月はトレーニングに励んだ。そのせいでつぶれた手のマメが痛いけれど、苦ではなかった。
野球なら、余計なことは何も考えずに練習に没頭できたからだ。
時間も余ってしまったことだし、寿也は押入れの中を整理しようと襖を開いた。普段から几帳面な性格のためか、そこもきっちりと整頓されていて、さほど時間はかからないだろう。暇つぶしにもならないな、と苦笑を浮かべた。
しかし、その奥に懐かしいものが見えて、思わず手にとって呟く。
「吾郎君にもらったグローブ、だ……」
もうずいぶん古いものだけれど、未だに光沢は失われていない。
そのグローブは、彼が引っ越したあとすぐに使えなくなってしまったけれど、手入れだけはずっと怠ったことがなかった。サイズさえ合えば、すぐにでも仕事をしてくれそうなそれを、寿也はもしかしたら自分の道具以上に大事に扱っていたのかもしれない。
けれども海堂に進学し、吾郎が辞めてしまった際、もう必要ないだろうとここに仕舞い込んだのだった。覚悟と決意のために、彼に関するものは全部片付けてしまった。そうでもしないと落ち着いていられなかったのだ。
もう今は小さすぎて、手に嵌めることすら出来ない宝物をまじまじと見つめる。掠れた懐かしい名前をゆっくりと撫ぜた。
「……あとで手入れしなおそう。まだなんとかなりそうだし」
皮とグローブの独特のにおいが鼻をくすぐる。それとともに、本来の持ち主である彼の姿が浮かんできて、小さく呟いた。
「……もうすぐメジャーはトライアウト、か」
寿也が一歩ずつ前に進んでいくように、吾郎も同じく、けれども確実に自分よりもずっと遠い場所へ向かおうとしている。
このままで、いいのだろうか。
何度も問い直してうやむやにした疑問は、未だに胸の中にくすぶって、あの日以来の割り切れない気持ちとともに存在していた。
「好きだ」と伝えることは、想いを諦めるよりもずっと簡単なのかもしれない。でも、寿也は彼に置いていかれると思った、浅ましい気持ちを同時に知られてしまうこと、そして彼を引きとめようとした自分が怖かった。あの時は手を途中で止められたけど、次は掴んでしまうかもしれない。
寿也が好きになったのは、野球のために自由になれる吾郎なのだ。
もしも自分が彼を止めてしまったら、もしも自分たちの関係が表ざたになってしまったら、それはすなわち彼から野球と自由を奪ってしまうことになる。それだけは絶対に駄目だ。
そうならないためにも、寿也は自分の、そして吾郎の想いからも逃げ続けるしかなかった。入寮してしまえばそれも終わる。友達として、ライバルとして、彼を応援する、それだけだ。吾郎だって、アメリカに行けば嫌でも――彼のことだから、そんなことは言わないだろうけど――野球一色の生活が待っている。そうすればきっと、一時期の感情なんてたちまち消し去ってくれるだろう。
忘れてほしい。そして、忘れてしまいたい。
それだけのことだと分かっているのに、胸が握りつぶされるようにとても痛くて苦しい。思わずグローブをぎゅっと抱きしめてしまった。
だが、階下から祖母の呼ぶ声が聞こえてきて、慌ててそれを机の上に置きなおす。 いきなりだったせいか心臓が激しく鳴っていて、浅い呼吸を繰り返した。
「何、おばあちゃん」
平常を装って、寿也は部屋の戸を開け、下にいる祖母に尋ねる。
「吾郎君が来たよ。部屋にあがってもらうからね」
言われた意味が一瞬理解できなくて、しかし、吾郎と祖母の会話で目が覚めたようにはっとした。
何でここに来たんだよ。もうすぐだったのに。
とりあえず部屋に戻り、グローブを見えないところに隠す。
足音が近づいてくる。とことんタイミングが悪かった。よりにもよって、感傷にひたっているようなときに訪れてくるなんて。
久しぶり、とも、もうすぐ渡米だね、ともいう暇もなく、ひどく真剣な、彼特有の真っ直ぐなまなざしが向けられて、寿也は思わずたじろいだ。
そして吾郎は今、一番聞きたくなかった言葉を告げた。
お前が好きだ、と。
*
これ、最後の行を書いていたらフリーズしてしまい一からやり直しになりました。
バックアップはこまめにとったほうがいいですね。