一瞬、何が起こったのかよく分からなかった。
目の前の景色がまるでスローモーションのように流れていく。リトル時代と同じように、ボロボロになりながら投げる吾郎がゆっくりとグラウンドに倒れて、ボールがその手から落ちた。
ボークを叫ぶ審判の声も、勝利を喜んだ幾人かの仲間の声も聞こえない。心臓の音が妙にうるさくて、背中を嫌な汗が伝った。
彼は大丈夫。そう自分に言い聞かせる。また、すぐに立ち上がるはずだ。あの時と同じく、彼ならきっと――。
「茂野!」
叫び声と共に、誰からともなく吾郎の倒れたマウンドに集まった。球場がざわめき、不安の色が混ざり合う。
吾郎は起き上がらない。期待は見事に裏切られて、同時に彼の状態がよくないことを悟ってしまった。
「嘘、だろ……?」
唇をぎゅっと噛み締める。寿也だって、彼らと同じようにすぐにベンチを立ち上がり、吾郎に駆け寄りたかった。しかし、思いの他足が全く動かない。どうすればいいのか分からないまま、寿也はベンチに座り続けていた。
聖秀の選手が吾郎の両肩を支え歩き出す。
吾郎はいつものように笑っていた。立つのもやっとだった身体で、今だってとても痛いはずでだ。それでも海堂のベンチを見て、彼は満足そうに口許をあげる。
それを見て、いつかの吾郎の言葉を思い出した。
『後悔なんかしてねえよ』
彼のことだから、きっとあるがままを全部受け入れているのだろう。この一年間の成果、今日の試合、自分の怪我。
どれも寿也には分かるはずもないことばかりだ。何せ今の今まで敵同士だったのだから。
でも、だからこそ知ることができたものがある。
それを伝えにいく義務が、自分にはあると思った。敵も味方も、もう関係ない。ここにいるのは、野球に何一つ変わらない情熱を傾ける茂野吾郎だ。
「佐藤!?」
誰かの止める声も耳に入らず、寿也はゆっくりと外へ向かう吾郎の元へ駆け出した。
「……吾郎君!」
吾郎と、肩を貸す選手の足が止まる。一緒彼らは驚いた表情を浮かべたが、寿也にはもう何も気にならなかった。
寿、と静かに呼ばれて胸が張り裂けそうなぐらいに痛くて、泥だらけの拳を握り締める。
「絶対、またマウンドに戻ってきなよ!」
僕だって何も後悔していないから。
そう言ってから、初めて自分が泣きそうだったことに気付いた。
吾郎を見送ってから、涙を隠すために上を向けば、曇り空は消えて眩しいぐらいの青が広がっている。
「……空って、こんなに青かったんだ」
そういえばリトルで試合をした時に、ホームベースで倒れた吾郎が同じことを呟いていた。
強引にユニフォームの袖で目元を拭って、寿也は目を細めた。
しばらく立ち尽くしたあと、寿也がロッカールームに戻るとそこには既に誰もいなかった。みんな着替え終わっていたようで、寿也はユニフォームのままベンチに腰掛けると、タオルを頭からかけて俯く。
震える指先でタオルを握りしめ、寿也は静かに泣いていた。
大丈夫だと信じたい反面、怖くて怖くてたまらない。
六年生の時、吾郎が肩を壊したというリトルの会報を見た時も同じで、涙は一向に流れ続けて止まらない。震えを隠すように、自分で自分を抱き締めた。
(大丈夫、大丈夫だ。絶対に、吾郎君は)
寿也がこんな風になることを、彼は望んではいない。
吾郎に向かって叫んだ時、僅かだが確かに頷いて、今度は寿也に笑いかけたのだ。「泣くなよ」と唇を動かして。それは声にはならなくても、確かに寿也の耳には届いた。だからこそ我慢をしなければと思って、深呼吸を繰り返す。
「……佐藤」
ノックと共に、遠くから薬師寺の声が聞こえてきた。
「大丈夫か?」
「うん」
それだけ返事をすると、嗚咽が漏れそうになって慌てて口を塞ぐ。
だが、急にミーティングの存在を思い出して、こんなことをしている暇がないことに気付き、真っ青になった。
「ごめん、僕……」
「ミーティングなら中止になった。学校に戻ってからやるそうだ」
言おうとしたことを察されたのか先を越されたが、それを聞いてとりあえず少し安堵した。
「分かった。今行くから」
一度深く息を吐いてから、タオルで涙を拭うと寿也は急いで制服に着替えはじめ、廊下にまだいるであろう薬師寺に声をかけた。
「どうした?」
「去年言ったこと覚えてる?壮行試合の時のこと」
数秒後、ああ、と返事が戻ってきて、手を休めずに寿也も負けじと声を張り上げた。
「あの時、僕は違うって君に言った。茂野は、――吾郎君はナインには含まれてないって。やっぱり間違ってなんかいなかったよ」
吾郎が眩しいと心から思った。
マウンドからの真っ直ぐな球に、野球に引きつけられて、寿也にはいつしか忘れ去っていた熱い闘争心が燃えたぎっていたのだ。それはきっと、自分だけではない。眉村も、薬師寺も、みんなも同じはずだ。
「……納得したのか、茂野が出てった理由に」
やっぱり全部知られていたのだ。聡いな、と苦笑いを零した。
「うん。やっと、ね」
納得、というには少々語弊があるかもしれない。正しくは実感した、だと寿也は思う。
九回のバッターボックスに立った時の吾郎の気迫は、恐ろしいくらいに強いものだった。
怪我をしたって投げ続けて勝負を諦めず、吾郎は自分で証明をしたのだ。海堂を出ていったことに意味があるということを。
豆だらけの掌を軽く開いたり閉じたりしてみる。そして寿也はふっと微笑んだ。
指先が吾郎の球を打った感触に未だ支配され続けている。
それは、吾郎とバッテリーだった、あの時に感じた甘い痺れによく似ていた。
*
薬師寺と寿也、パート2。
ひとりで泣く佐藤さんですが、実はみんな知ってればいいです。