:: 胸に咲いた黄色い花 ::
 川沿いに、一輪の小さな花が風と戯れていた。何の変哲もないただの花だ。向日葵のように力強くもなければ、桜のように人を呼ぶ美しさをもつわけでもない。
 ただ、あえて特別な点をあげるとすれば、今は大抵の花が咲く季節ではないということだ。
「元気だよなー、ったく」
 傍から見ればなんて滑稽な姿なのだろうか。河原に寝そべって隣の花に話しかけている人間なんてそうはいない。そんな自分に苦笑いを浮かべながらも、吾郎はやはり動かなかった。
 少し濁った、太陽の反射する川は北風によって水面に波が作られゆらゆらと消えたり現れたりしている。
 何も変わらない、二月の冬の日。目を閉じればくっきりと思い出せる二年前の記憶を吾郎は引き出しから引っ張り出した。



「あ」
 ランニングの途中、いきなり声を漏らして足を止めた寿也につられるように立ち止まって、不服そうに彼を見る。
「どーした、寿?」
「……ちょっと休憩しない?」
 まだ全然走っていない気がするのに休憩なんて気乗りはしない。もっと走って、受験で溜まったストレスを投げ散らかしてしまいたかった。
 だが、いいよね、と笑う顔からは有無を言わせない圧迫感がある。ここで吾郎が嫌だと泣こうが喚こうが関係ないのだろう。結果が変わらないのに寿也に喧嘩を売る気はなかった。
「いいぜ。俺も疲れたし」
 下手な嘘に頬が引きつったのは気のせいだ、多分、きっと。
「じゃあほら、こっちに来てよ」
「あー」
 手招きされて数メートル戻ってから、草の枯れかけた土手に腰掛けようとする。
「そこ、踏まないようにしてよ」
 目線を下に向けると、そこには花が咲いていた。吾郎の指先サイズのそれが寿也の隣を陣取っている。
「へぇ。珍しいな、この時期に」
 素直な感想に寿也も頷く。
「うん。すごいよね、こんなに寒いのに」
「ただ季節間違えたんじゃねえのか」
「君じゃあるまいし。そんなに馬鹿じゃないよ」
 ね?と笑いかけられた花は返事もせずに風に静かに揺られていた。
 さらりと馬鹿呼ばわりされた吾郎の、八つ当たりに花を弾こうとした手がすかさずはたき落とされる。
「ああでも、ちょっと君に似てるかも」
「どこが」
 手の甲をさすりながら、不満気に相槌を打つ。
 一体どんな力で叩かれたのか。心なしか手の甲が赤くなっているように見えた。
「逞しい所とか、人と違う所とか」
 それは果たして褒め言葉として受け取るべきなのか。
「……あのなぁ。つーか、だったらお前の方がそっくりだろ」
 僕?と不思議なものにでも遭遇したような寿也の顔は、いつもマウンドから眺めるそれとは全然違う。何も言わずに黙っていたら、段々その表情が曇っていく。
「どこが似てるの?」
 ほぼ全部、と答えたら怒られるかもしれない。
 一見弱そうで穏やかに見えるのに、心に秘めているのは誰よりも強い意志と負けん気だ。けれども時々、とても不安定な一面をさらけ出したりする。
 頼りなくここに佇む花と、そしてそんな寿也はとても近い位置にいるんじゃないのだろうか。
「んまぁ色々と。てか、そろそろ行こうぜ」
 未だ訝しげに花と吾郎を交互に視線を送りながらも、寿也は渋々返事をした。
 だが、なかなか立ち上がらない。身体に付いた土を払いながら、吾郎は彼の名前を呼ぼうとしたが、何も出来ずに目の前の光景を凝視した。
 寿也の唇がゆっくりと黄色い花に触れたのだ。最初は指先で優しく花をつついていただけだったのに。
 数秒の出来事のはずだが、時が止まったかのような錯覚に陥る。寿也の容貌もあってか、今まで見たこともないようなくらい美しい、色鮮やかで静かな一枚画のようだった。
 何故か気恥ずかしくなってしまい、吾郎がそれから顔を背ける。鼓動の音が激しく鳴っている理由は何なのか。
 ごちゃごちゃに混ざった、よく分からない色の絵の具が胸の中へ数滴零れ落ちてきたような感じで、なんだか違和感ばかりする。
 寿也もすぐに身を起こしたらしく、そっと顔を覗きこまれ、艶めかしい赤い唇に目を奪われそうになって慌てて前を向いた。
「ランニング終わったらさ、バッティングセンターにでも行かない?」
「ああ……」
 釈然としない胸の内を隠したまま、吾郎はまた駆け出した。寿也と別れれば、明日になれば、そのうちすぐに忘れるだろう。そう願って。





 懐かしい思い出が、少しだけ春の色を帯びた風と共に吾郎の身体を撫でていく。
 海堂に進学してからは、花を見る余裕もないくらいに練習に励んでいた。だからこそ自分の真っ直ぐが鍛えられ、海堂を倒すという目標が本物になったのだから文句はない。
 でも、以前のように寿也と小さなことで感動したり、笑ったり、喧嘩することはなくなっていた。
 互いに自分のことで精一杯だったし、海堂を出ていく宣言をした日から何となくぎくしゃくした関係となってしまったからだ。
「一昨年お前と会ったこと、覚えてんのかな」
 共に過ごした中三の冬から、既にもう二年が過ぎている。
 聖秀に入った後も連絡は全くとっていないから、きっと寿也は吾郎がどこに行ったのかさえ分からないのだろう。いや、気にもかけないか。
「お前は全然変わらないで咲いてんのに」
 呟きながら、あの日の寿也と同じようにその黄色い花弁にキスをしてみた。土の味がうっすらとして、自然と笑いが込み上げてくる。
「何やってんだ、俺」
 あの時浮かんだ感情は、結局消えることなく吾郎の心にしっかりと芽吹いてしまっていた。複雑な、甘ったるくて苦くて切ないような、よく分からないそれに名前なんてない、そう思っていたのに。
 海堂から出る前夜、一度だけ寿也の赤い唇を奪ってしまった時に、その芽から花が咲いてしまったのだ。
 ご丁寧に恋という名称まで自覚してしまったのは、久しぶりに一人自室で眠った夜のこと。寂しいという感覚が、あの唇の感触や色、寿也と過ごした短い一年を忘れないようにと叫んでいた。忘れられるはずもないのに。
 
「さて、と。そろそろ行くか」
 少し寒くなってきて、吾郎は伸びをしながら立ち上がる。寒空にも負けないで可憐な姿を晒している花に、そういえば可愛い所も似てんじゃねえのかと本気で思った。
「……また来るからな」
 今度はきっと二人だ。今、進む道は違っても、目指すものと繋がっているものは同じなのだから、いつか一緒に来られたらいい。
 あの時言えなかった、花と寿也に似ている部分を暴露したら、一体どんな顔をするだろう?
 そんなことを考えながら、家路を辿る吾郎の胸の中にもあの日と同じ花が咲いている。寿也と見た、名もない花が。


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