あの一件以来、吾郎とは音沙汰なしだった。
当たり前だと思う。連絡をすべきなのも、謝るべきなのも、全部自分なのだから。
忘れることが出来たならよかった。そうしたい自分と、そう出来ない頭とがごちゃごちゃに絡まりあって、この一月は全然考えがまとまらず、駆け足のように時間が流れてしまった。
膝の上で握った手に力を込めたとき、下のほうから玄関のチャイムの音がした。そういえば祖父母は出かけてしまっていて、この家には今、自分ひとりしかいない。慌てて階段を下り、ドアを開ける。
「どちらさ……」
「よお、久しぶり」
そこには、一か月前とさして変わらない、吾郎の姿があった。ただひとつ、目に馴染まない松葉杖だけがすっかり消えていて、両足で地を踏みしめている。
「足、治ったの?」
彼と自分を挟む門の手前まで歩み寄って、すぐに後悔する。吾郎に近づくほど、この間のことを思い出してしまいそうで慌てて視線を下に向けた。
彼の足はすっかり元気そうに見えて、吾郎もそれを示すように数回、強く地面を踏み締める。
「おかげさまで完治だ。でも下半身がすっかりなまっちまって、今はトレーニング中」
「そっか。……でも、よかった」
素直な、心からの感想だった。ほっとしたおかげか、強張っていたらしい顔の筋肉が緩んだ気がする。
実際、ずっとそんな表情をしていたらしい。
「やっと笑ったな」
自然と微笑んだ寿也を見て、吾郎も安心したように笑みをこぼした。
「そう?それより、何か僕に用事があるんだろ?」
見透かされていたことが恥ずかしくて、つい冷たい言い方になってしまった。吾郎の表情が少し曇る。
「用がなきゃ来ちゃいけねえのかよ」
「そういうわけじゃないけど」
人の気も知らないで、という言葉は飲み込む。
振り回されてるのって、もしかしなくても僕だけ?
そう思ったら、ばからしくて、それ以上に悔しくて寿也は静かに溜息をついた。
「ま、実際は用ってか報告だな。足の完治のことと、あとは……」
「あとは?」
即座に尋ねると、吾郎は少し渋って、ばつの悪いような曇った表情を浮かべた。それでも眼差しは真っ直ぐ寿也に向けたまま、はっきりと言い放つ。
「俺、メジャーに行く。……あっちでギブソンと、んでもっともっと強いやつらと戦いたい」
「メジャー?」
言われた意味を理解するのに、何度も瞬きをする必要があった。言葉を確かめながら、ゆっくりと頭の中でなぞる。
彼の父親を、事故とはいえ殺めてしまったギブソンが未だに現役で投げ続けていることは、寿也も知っていた。そのギブソンの発したあのメッセージのことも。
あれが本田吾郎に向けられたものだったと気づいて、寿也は息をのんだ。
迷いのない目から伝わった、とても強い彼の気持ちに寿也はそっと目を伏せる。
難しい決断だったはずだ。プロを蹴って渡米するなんて、誰が聞いたって無謀だと口をそろえるだろう。
「……もう、決めたんだ」
それでも意志を変えるつもりがないから、吾郎はここに来たのだ。
「ああ」
彼が微かに笑った気配がする。それにつられるようにして、寿也は目を開け吾郎を見つめた。
「あのおっさんが現役で俺を待っててくれてることを知っちまってな。結構迷ったけど、やっぱ、自分の気持ちに嘘はつけなかった」
とてもすっきりとした顔をして、吾郎が遠くを仰ぐ。
もしかしたら、彼がいつかはどこか遠くへ行ってしまうんじゃないかという予感は常に心の片隅に散らばっていた。まさか、こんなに早いとは思ってもみなかったけれど。
「なんか、すごく君らしい結論だね」
傍から見れば無謀で馬鹿なことかもしれない。でも、なぜか吾郎なら大丈夫だという気がしてしまうから、とても不思議だ。昔からずっとそうだったように。
「……お前の言う通りになっちまったな」
何が、とは聞かなくてもすぐに分かった。
「黄金バッテリー?」
「ああ」
それだけが気掛かりだとでも言うかのように、本当に申し訳なさそうに佇みながら吾郎は髪の毛をかいた。
「けど、お前と組みたいって気持ちは変わってねえから。まだチャンスはいくらでもあるだろうし。オリンピックとかな」
「日の丸を背負って、世界を相手にする、ってことかい?」
それがどういうことか、きっと全て分かったうえでこれだけ大胆な発言をするのだから、吾郎はあなどれない。
「もちろん勝って世界に名前を売ってやる。つーわけだから、忘れんなよ」
差し出された手に、寿也は自然に応じた。すぐにふたつの掌が重なる。それは、とてもあたたかくて、ほんの少しだけ悲しかった。
「ずいぶんな自信だね」
「寿だって満更でもないくせに」
それには答えずに寿也は苦笑した。
「いつごろアメリカに行くの?」
「二月だな。トライアウトの日程があるから。お前も巨仁のキャンプインはそれぐらいだろ?」
「うん。もしかしたら、僕のほうが早いかも」
握った力が弱まった。離す合図だ。だんだんと遠ざかる手を無意識に追いかけようとして、寿也はそれを慌てて引っ込め、戸惑う。
今、僕は何をしようとした?
「寿也?」
「ごめん、何でもない」
震える手を懸命に抑えつけて、なんでもない風に振舞うのが精一杯だった。心臓の音がうるさいぐらいに響いている。
納得がいかないような顔をしながら、吾郎もまた何かを言いかけ、しかし、同じように不自然に口を閉ざした。そんな様子を見なかったふりをして、作り笑いを浮かべる。
「……頑張ってね」
「寿も、練習サボんなよ」
「ありえないよ」
互いに言いたいことのひとつも言えていないことぐらい、分かっていた。それでも、どちらからともなく背を向けて、別れの合図をする。寿也はその場から動けなかった。
遠ざかっていく足音を聞きながら、思わず後ろを振り向くと、彼の背中はすでに小さくなっていた。そしてすぐに見えなくなる。
「……遠い」
アメリカ以上に吾郎への距離がとても長く感じた。手を伸ばそうとも、あがこうとも置いてかれてしまう。
ぎゅっと掴まれるように胸が痛いのは、彼とバッテリーを組めなかったからじゃないことに、今更気づいた。
「僕は、僕自身と向き合うことが怖かったんだ……」
あの時逃げたのは、彼からではなかったのだ。
彼の言わんとする言葉を聞いてしまい、自分自身の気持ちを認めてしまうのが怖かった。あの二回目のくちづけで目覚めた、途方もなく強くて汚くて、それでも光を失わない想いの名前を。
「好き、なんだ……。吾郎君のこと」
口にしてしまって、ますますいたたまれなくなった。もうどうしようもないのだと気づいて、それでも、割り切ってしまうことは当分出来そうにもない。
はじまった瞬間に未来がないとは、なんて不毛な想いだろう。でも、あの日背を向けた自分に対する天罰かもしれないと、ぼんやりと思った。
この頃ってWBCの話はあったの?吾郎は知らなさそうなので五輪にしました。