:: 君が思い出になる前に ::
 部屋の片隅に荷物を置くと、もうすることがなくなって吾郎は床に寝そべった。クーラーが唸っている割にそこはまだ生暖かくて気持ちが悪い。
「あちー……」
「吾郎君、だらしないよ」
 たしなめる声に、もう当分会えなくなるのだと思うと少し胸が痛む。ここで過ごした一年、寿也と過ごした一年半はあっという間に去っていった。まるで全ての出来事が夢のように。
 それでも、例えば今のように椅子に腰掛けながら、愛用のミットに油を塗る姿は何度も見たし、子供のような顔や寝ぼけた姿など寿也の新しい一面をたくさん知った。それは多分寿也も同じで、彼が昔吾郎の隠していた雑誌を発見して盛大に眉をしかめたことを思い出す。
「何笑ってるんだよ」
 手入れの終わったミットを机の上に置いて、寿也が拗ねたような口調になる。吾郎が笑っている理由が自分にあると気付いているようだ。
「なんでもねぇって」
「……」
 寿也の目が伏せられる。長い睫毛がそっと頬に影を落とした。そして信じられないね、と呟く。
「明日から、君の球が受けられないだなんてさ」
「寿」
「君、そういう素振りを見せないから。どうでもいいんだろ?もう海堂のことなんて」
 その言葉に思わず身を起こし、声の主に顔を向けた。寿也が何を考えているのか、俯いているせいか表情も伺えない。
 それでも寿也の様子はいつもと違うことだけは分かる。彼は昨日の試合中と同じように唇を噛み締めながら何かに耐えていた。
 吾郎が寿也の傍まで歩いて、椅子に座ったままの彼を無理矢理立ち上がらせた。一瞬目を合わせて、すぐに逸れる。
「……言いたいことは、それだけか」
「っ」
 寿也が息を飲んだ。
「俺は今更言い訳も何もしねぇよ。去年と、昨日の試合で言ったことが全部だ」
 だからお前も俺にぶつけろよ、と訴えかけると、寿也ははっと顔を上げ吾郎を呆然と見つめてきた。

 本当は、昨日の試合中も言葉にするつもりはなかった。あれから一年たった今でも変わらず、自分の気持ちを上手く伝えられるとは思わなかったからだ。
 そして、それならば野球で届ければいいとずっと考え、特に昨日投げた球は全て吾郎が特別な意味を込めたものだった。それは最高のキャッチャーの向こうにいる最強のバッター、寿也に届いただろうか。
「俺の球を打ちたくはないのか」と。
 吾郎と向かい合ったまま黙り込んでいた寿也がゆっくりと目を伏せる。そして一呼吸おいてから、頑なだった口を少し開いた。
「昨日のこと――君が勝てば出てくって、一年も前からずっと分かってたことだ。僕だって必死で納得しようとしたさ。でも、」
 言葉が途切れる。
 吾郎を睨み付けた大きな瞳から、一筋の涙が寿也の白い頬を流れた。
 それは、人前では決して弱さをさらけ出さない寿也が初めて見せた姿で、吾郎の心臓が大きな音を立てて一度鳴る。思わず目を見開いて凝視した。
 声もなく涙を零す寿也は不謹慎だがとても美しくて、目が離せない。
 それを気にする風もなく、寿也が続けた。
「楽しいんだ。毎日、何回もボールを受けたけど、受ければ受けるほど楽しくなった。君の真っ直ぐが日に日に速くなるのは僕だって嬉しくて、どうしようもなかったんだ!」
 頭を殴られた気がした。
 寿也がキャッチャーとして、自分の真っ直ぐに一番喜んでくれていたことは嘘なんかじゃない。それこそ、寝言でうっかり伝えてしまうぐらいなのだ。
 では彼は、いつか敵になる相手の球を取りながら、一体どんな痛みに耐えてきたのだろうか。どんなに球が速くなっても、それを夢の舞台で取ることはできないという現実に。それは吾郎には知る術もないのだろう。
 けれども寿也が割り切ろうとしてずっと葛藤していたことだけは事実なのだ。

「……寿」
「忘れないで、吾郎君。キャッチャーとしての僕だっていたってこと」
 自分がしたことは結局、寿也のことを考えたという名目の自己満足でしかなかったのか。
 何も言えない吾郎を前に、一生懸命作ったであろう笑顔は悲しみを映していて、思わず眉をしかめてしまう。
「昨日、薬師寺もそういう顔してたよ。やっぱり上手く笑えてないんだね」
 ダメだなあ。自嘲めいたそれが妙に痛々しくて悲しくて、寿也の腕を思わず掴む。相手が息を飲んだが、衝動が抑えきれずにそのまま顔を寄せ、寿也の唇に自分のそれを重ねていた。
「ん……っ」
 抵抗されるかと吾郎は思ったが、意に反してそれはなく、寿也はされるがまま吾郎からのキスを受け入れる。
 ただ触れているだけなのに、そこから身体中がおかしいくらいに熱くなり、切なくて、何故だか泣きそうになった。
「寿也」
 唇を離して、吾郎は寿也を真っ直ぐに射抜く。濡れた生々しい唇から強引に意識を外した。前にも同じように逸らした覚えがあったが、どうしても思い出せずにいる。
「俺は、海堂に入ったことも、お前と短かったけどバッテリー組んだことも、それでここから出て行くことも、何一つ後悔なんかしてねえから」
「……知ってるよ」
「だから寿。お前も後悔なんかするな、つーかさせねえから、絶対に」
 こんなことを述べたって、それはただの自己満足でしかないことももう承知の上で。
 けれども、言わずにはいられなかった。他のことは信じてもらえなくてもいい。だからせめてこれだけでも知ってほしかったというのは、自分の我儘なのだろうか。
「相変わらず、すごい自信だね」
 溜息と共に、寿也がいきなり半回転して吾郎は背中と睨めっこをすることになる。真っ直ぐな背中のラインが頼りないのは、目の錯覚か、雰囲気なのか。
「吾郎君はいっつも野球バカでさ。振り回されるこっち身になってほしいよ」
 呆れた彼の声音には、先程までの動揺や弱さなんてこれっぽっちも含まれていない、いつもの寿也だった。どんな顔をしているのか、それだけが気になる。
「悪かったな」
「ううん、僕は、そんな君だから――」
 寿也は急に黙って首を振った。もう寝よう、それだけ付け加えると彼は先に動き出す。
 まだ言いかけの言葉がある、が大人しく吾郎はそれに従いベッドに潜り込んだ。電気が消え、部屋は暗闇に包まれる。
 互いに寝息なんて聞こえてこない。目がはっきりと冴えて眠れそうになかった。
 話すこともなく、眠れない静かな夜を迎えてから吾郎は、あの言葉の続きはもう二度と聞けないのではないかとぼんやりと思う。
 朝なんて、来なければいい。初めてそう思った夜だった。


*
寿也さんの本音と、吾郎の気持ち。一方通行なふたり。


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