:: チェリー ::
「またな」
「ああ」
 横をすりぬけていく吾郎の顔に後悔は微塵も浮かんでいなかった。いっそすがすがしいくらいの笑顔と、これ以上もない自信が漲っている。
「追わなくていいのか」
 薬師寺の声に軽く頷いて、そんなの意味がないよと笑ってみせた。先程からちらちら視線を感じていたから、多分心配してくれていたのだろう。案の定、寿也の言葉を聞いて薬師寺は安心したように微笑した。
「お前のポーカーフェイスが崩れてたからな」
「そうかな」
「すごい顔してた」
 指摘されたって、結局自分では見られない場所のことだから寿也はあまり気にせずにいた。
 試合後のグラウンドは熱気も歓声もなく、ただ静まり返っている。あのマウンドに、吾郎が本当に立っていたのか不思議になるくらいに。
 しかし、左手に残る甘い痺れが現実だと叫んでいる。今日の吾郎の真っ直ぐは、寿也が今まで受けてきた誰の、どんな球よりも最高だった。これを、いやこれ以上の球を、今度は自分が打つことになるとは思いたくない。
「佐藤はどう思ってる?」
「吾郎君のこと?」
「ああ。みんな――俺を含めて無駄だと思ってるけどな。ここよりいい所はない」
 薬師寺の言葉に軽く頷く。
 環境の整わない所で野球をしていくことがどんなに難しいか、それはリトルから軟式に変わった時に嫌というくらい教えられたからだ。大方みんなそう思い、彼の行動が無駄だと考えているのだろう。
 しかし、リトル、中学時代と吾郎はいつだって厳しい環境の中にいた。彼は野球ができるなら、その他は問題ないはずだ。
「無駄かどうかは分からない。――でも、野球は一人でやるものじゃないからね」
 そこが彼の命運を分けるはずだと寿也は思っていた。
 確かに吾郎の才能、努力、野球のセンスは秀でている。しかし、それだけで倒せるほど海堂は、甲子園は甘くない。
「彼にうち以上のナインが集められるとは思わない。仮にそういう選手がいる高校に行けたとしても、いきなり入ってきたエースにいい顔はしないだろうしね。それに――」
 一度言葉を止めて、寿也は仲間達がいるベンチを眺めた。共に汗を流し、時には戦い、これから一緒に上を目指していくのだろう。
 必要なのは九人の力であり、たったひとつの金の卵ではない。
「僕は、このメンバーで甲子園に行きたい。そのためには、相手が誰であろうと勝つだけさ」
 寿也には、吾郎を追いかけるつもりなんて全くなかった。そして一から始めるであろう彼を待つつもりも。ただこのまま進めばいい。その途中でたとえ向き合ったとしても、自分たちは絶対に負けないという自信がついている。
 これが吾郎に対して、一年かけて出した寿也なりの結論であり決意であった。


 それからしばらくして、ベンチから寿也と薬師寺を呼ぶ声がした。振り向いて、軽く片手をあげて返事をする。そろそろ帰る時間だった。寮では今頃吾郎が退学届を渡しているかもしれない。
「薬師寺、そろそろ……」
「……佐藤」
 いつまでも動こうとしない薬師寺が、やっと口を開く。行こうよと促したが、彼は視線を少し彷徨わせただけだった。まるで何かを迷っているように。
「どうしたの?」
「……答えたくなかったら、そのまま立ち去ってもいい。だから、聞いていいか」
「うん」
 しばらくの間、沈黙が流れる。やがてゆっくりと薬師寺の口から言葉を受け取った。
「お前が言った『このメンバー』って、茂野を含めてじゃないのか」
 それと同時に、薬師寺がためらっていたわけを知る。確かにこの質問は、寿也の内面をばっさり切るようなものだった。
 けれども寿也はうろたえることも怒ることもせず、淡々と答える。
「……違うよ」
 いつだって自由に走る吾郎を、その言葉で縛り付けていられればよかったのかもしれない。でも吾郎はそれさえ振り切って、寿也の前から消えてしまうのだろう。
 彼と敵になるのは慣れている、だから大丈夫だと自分に言い聞かせた。そして笑う。うまく出来たはずなのに、薬師寺はそんな寿也を見て顔をしかめた。
「あんま、無理すんなよ。お前のチームメイトは俺達なんだから」
「ありがとう。ちゃんと分かってるから」
 寿也の肩を軽く叩いて、薬師寺はベンチに荷物を取りに行ってしまった。聡い彼には分かられてしまったのだろう。自分がまだ、まだ何一つ納得できていないことに。
「僕は、大丈夫」
 呪いの言葉のような励ましで、寿也は自分自身を戒めた。それが吾郎への思いに蓋をして、これからの自分を作っていくはずだと。



*
薬師寺と寿也。
一番の理解者になってくれればいいです、薬師寺。大丈夫だなんて言わせないでほしい。
本当はもっと違う感じのお話でした(笑)

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